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 ●首都圏支部の役員親睦会

掲載日:2006/10/01

平成18年5月13日〜14日に首都圏支部役員の親睦会で
栃木県日光方面に出向きました。
そのときの様子を事務局の猪口眞美が報告いたします。

 宇都宮の名物は餃子?

 「宇都宮と言えば餃子、餃子と言えば宇都宮」と言われるほどの名物。  そこで、昼食に訪れた大谷(オオヤ)のドライブインで餃子定食をいただくことに。  焼き餃子、水餃子が食べ放題でした。
 誰かは4皿以上もおかわりしたとか(^0^) ウウ ちょっと ゲップが。
 なぜ宇都宮は餃子の名所なのか???? 素朴な疑問がわいて店員さんに聞いてみましたが明確な返事は貰えませんでした。
 統計調査(家計調査年表)によると宇都宮は餃子の年間購入額が日本で最も多いとのこと。夕食のおかずに餃子が食卓に上がることが多いのです。
 今日も餃子、明日も餃子、そして次の日も……
 宇都宮に住んでいる会員の皆さん、それは実感として感じますか????
 教えて下さ〜い。
 何故購入額が多くなったのか? 軍隊説、気候風土説などなど諸説様々あるようですが良く判りません。
 これ以上の詮索はヤメ。
 美味しいから多くの人に食べられる。それで良しとしましょう。



 店のご主人名ガイド
 
 食後にお店のご主人に案内されて、ドライブインのすぐ裏手の平和記念像を見させていただきました。  あいにくの雨模様にもかかわらず、ご主人はスゲ笠をかぶり、ご自分の感想も随時入れつつ独特の名調子で流れるような解説をしていただきました。  (いよっ 名ガイド)
 続いて板東三十三札所の十九番札所である大谷寺に向かいました。  洞穴の前に建つこのお寺には、弘法大師が彫ったといわれる日本最古の石仏(大谷観音)があります。  洞穴に直接刻み込まれた千手観音(磨崖仏)はかなり風化していましたが、平安時代(810年ごろ)からの時の流れを感じさせるようでした。
 江戸時代初期に徳川家康の長女・亀姫が大谷観音の再興にあたったので入口の垂れ幕には葵のご紋が印されています。

 このお寺の横に宝物館があり、そこに約1万1千年まえの縄文最古の人骨が展示されていました。  きれいに残された遺骨。  やけに歯がきれいなのに気づきました。  『縄文人は歯が命』 だったとか これは私の意見ではなくガイドさんですから悪しからず。m(_ _)m

 途中、懐かしい看板を見つけてしまいました。
 ちょっと時代をさかのぼった感じ・・…もしかして時代に取り残されたのかな?



 巨大な地下空間
 
 宇都宮市から北西約8kmの大谷(オオヤ)町に産出する大谷石(オオヤイシ)は、加工しやすく耐火性にも優れ、建材として非常に需要がありました。  関東大震災でも倒壊しなかった「旧帝国ホテル」もこの大谷石で作られていました。
 この大谷石を採掘した跡地が地下採掘場です。  かつては一般の人々の目に触れることなく「未知なる空間」と呼ばれたそうですが、現在は資料館として一般に開放しています。  地下にはいるとひんやりとした感じがしました。  一年を通して大きな温度変化が無いので、倉庫として利用されたこともあるそうです。
 その広さは、2万平方メートル、深さは、30mにもなるそうです。  石壁には、手堀り時代のツルハシのあとが残っていて歴史を感じさせました。
 また、この巨大地下空間ではコンサートや美術展などが開かれたりしているそうです。





 緑に映える龍王峡
 
 「鬼怒川温泉」と「川治温泉」の中間点、鬼怒川沿いの約3kmにわたる渓谷が龍王峡と呼ばれます。  土曜日とはいえ雨が降っていたせいか、人影が少なくやや寂しい感じがしました。  何件か立ち並ぶ土産物屋の横を通り抜け、小道を下り、6〜7分のところに竜王神社の小さな社がありました。  この裏手から緑に包まれた美しい渓谷をを一望でき、すぐ裏手には虹見の滝があります。  ここから下ること数分、橋の左右に広がる景色は素晴らしいものでした。  さらに橋の中央付近からの眺望は素晴らしく、雨にけむる山々の荒々しい岩肌が新緑に包まれ、藍色に輝く水面と相俟って絶妙の美しさを醸し出していました。  時間が有ればもっとゆっくり見ていたかった。



 山岳信仰の世界
 
 翌日、天候もほぼ回復し、いよいよお目当ての日光・東照宮へ。  私は小学校の修学旅行以来、日光を数回訪れていますが、いつも団体旅行で慌ただしく見ているせいか東照宮の煌びやかさだけが印象に残っています。  今回はじっくり観たいという想いにかられていました。
 日光と言えば徳川家康の廟所として良く知られていますが、 はじめは山岳信仰の対象として766年に四本竜寺開山の祖といわれる勝道上人によって開かれました。  勝道上人は観音菩薩の浄土にそびえる補陀洛山(フダラクサン)に因んで、男体山を「二荒(フタラ)山」としたという説があり、 上人は苦労の末この男体山に782年に登りました。二荒(フタラ)の由来は他にも幾つかあるようです。  この二荒をニコウ=日光(現在の呼称)に読み替えたのが弘法大師といわれています。






 北極星を背にする東照宮
 
 夜半に東照宮の真北を眺めると北極星が輝いているのが見えるそうです(私は見ていません)。  また、ほぼ真南の方向には江戸城があり、東照宮の鬼門(北東)の位置には日光山の開祖勝道上人を供養して建てられた開山堂があり、 裏鬼門(南西)の位置には徳川三代の知恵袋といわれた天海僧正の墓所である慈眼堂があります。  なにやら風水を思い起こさせますが、 徳川家康、および天海はこうした観点から神聖なる地である日光を江戸(関八州)の守り神として信仰の対象としたのだそうです。  家康自体は「この地に小さな祠を建て、勧請せよ」と遺言したそうですが、天海は家康の遺体を日光に運び、東照大権現として祀りました。  次いで江戸の礎を築き、天下太平を願い、莫大な予算を投じて荘厳な東照宮に造りあげたのが三代将軍家光(大猷院)です。




 平和の象徴の彫刻群
 
 この東照宮には非常に沢山の彫刻があります。  有名なのは「見ざる聞かざる言わざる」の「三猿」、「想像の像」、「眠り猫」などです。  私も含め多くの人達がこれらの彫刻を見て、あった、あった、これがそうか 面白い格好しているな 以外と小さいな 等の感想で終わりだと思います。  でもよく見ると鮮やかな色彩と共に宮内の至る所にびっしりと彫刻が施されています。  それこそ隙間なく・・…東照宮全体で5000体以上あるそうです。  その一つ一つに様々な思いが込められて彫られているのです。  彫り師達は何を想い、何をいわむとしてこれらを彫り込んでいったのでしょうか?  私の頭には何も浮かんできません。
 ある本によるとこれらの彫刻群は平和な世の中の実現を顕わしているとしています。  霊獣たちが邪悪なものを寄せ付けず、君子が世の人達の意見に耳を傾け、子供達は無邪気に遊び回り、猫も鳥も共存できる平和な世の中を。
 「三猿」のある神厩舎の彫刻は印象深いものでした。  母子猿、子供の時は不要なものは見ない、聞かない、話さない、大志を抱く猿、落ち込む猿とそれをなだめる猿、恋に悩む猿、 結婚した猿、お腹の大きくなった猿、そしてまたその子供が成長していく・・・・・・  実に考えさせられてしまいました。  現代にも充分通じるものです。  いや、現代こそ、この猿たちに喩えて人生を顕わした先人の知恵と所行を見習わなければなりません。




 ふと現実に
 
 現地で頼んだガイドさんは若いお兄さんでしたが、楽しく、かつ流れるように解説をしてくれました。  たとえばこんな調子です。
 「東照宮には日本各地の有力大名、諸外国からも沢山の灯籠が献上され、きれいに並んでおります。  では皆さん この横をトウロウ・・・・・」などなど。
 楽しくかつ大変為になりました。  でも、三仏堂での方位除け、数珠のいわれと使い方などお参りする先々でお守りの効能などを説明してくれるのです。
 また、神社の宮司さんや巫女さん達がにっこりしながら奨めてくれると、ついつい買ってしまいたい衝動に駆られ、気づいたら ン千円の買い物に・・・・・・  日光を後にしてバッグに詰めた土産物の多さに改めてアアそういうことだったのかと現実の世界に戻ってきました。
 嗚呼 日光には参った 参った。

 でもとても爽やかで、有意義な旅行でした。皆様お疲れ様でした。
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